愛という言葉は、
“与えてから(=あ)・頂く(=い)”という意味なのだそうです。
今日は手前味噌な話題で恐縮ですが、
私が結婚してから学んだ“あ(=与えて)・い(=頂く)”の話を
書きたいと思います。
私は、無類の低血圧なので朝はなかなか起き上がることが出来ません。
反対に、ウチの主人は早起きで
朝は5:30ぐらいからわぁわぁ、一人で喋っています。
結婚してから毎日、ウチの主人は、
まだ石のように固まって、半分寝ている私に向かって、
「アナタは本当に綺麗だまるで天使が寝ているみたいだ
そんなアナタと結婚できて、僕はとっても幸せだ」
と、私が起きるまで30分以上ずっとずっと耳元で繰り返し語りかけてくれます。
お料理で、主人の好物を作ったり、
足裏マッサージをしたり、ちょっとお洒落したり、
彼のお気に入りなことを何かしてあげると、
または、風邪で寝込んで全く何もしない日でも、
「なんて君は素敵なんだ
アナタというソウルメイトを見つけられて、私は世界で一番幸せ者だ」と、
日に1度は言ってくれます。
その昔、フランスの生物学者で、
“トゲの無い薔薇”を創る人が居て、
毎日・毎日薔薇園に行って、
「君はなんて綺麗で素敵なんだ僕は君が素敵に咲けるように、
どんなことでもするからね君はただ咲くことを楽しんでね」
と、口に出して言い続けるうちに
“トゲの無い薔薇”が出来たのだそうです
ちなみに、この生物学者の方は、
とても“問題児で手が付けられない”と言われていた孤児の方を引き取り、
おそらく薔薇と同じ“無条件の愛”を注ぎ続けたのでしょうが、
今では『実の親子以上に、とても仲の良い親子』となっているそうです。
“美女と野獣”の物語でも、愛が獣だった王子を、素敵な王子に変容させていったように、
“カエルになった王子”の物語でも、愛が醜いカエルを、素敵な王子に戻していったように、
昔から、ただ無条件に送り続ける
『アナタを信じている・
アナタが生まれてきてくれて本当に嬉しい・
アナタは私を、こんなにも幸せにしてくれる』
。。。という有言無言のメッセージは、
あらゆるトラウマや防御壁・冷たさや・頑固さ・意地の悪さ。。。
といった“仮面”を取って、その人を最も善なる部分に戻してくれます。
逆を言うならば、
“闘犬”を創るには、
無視したり、気まぐれにしか餌や風呂を与えず、
まったく撫でたり、声かけを行わないと、
瞬く間に、気性が荒く・警戒と猜疑心が強く・意地が悪くて
攻撃的・人から奪うことばかりの“闘犬”が出来上がるそうです。
ところで、
ハート・チャクラはピンクとグリーンで構成されています。
沢山の愛を人から与えてもらったり、自分で自分に与えた人
(=ピンクがハートに入っている人)は、
自然と他の人にも、優しい声かけが出来たり、
だまって・そっと・他の人の為になることが出来ます(=グリーンが開花する)
私は、主人に沢山の愛を与えてもらっているうちに、
“どうやったら、彼を喜ばせてあげられるだろうか?”
“どうやったら、幸せにしてあげられるだろうか?”
“どうやったら、素敵にしてあげられるだろうか?”
と、いつもいつも考えるようになりました。
それは、主人に限らず
まったくの他人に対しても、だんだんそういう気持ちになって来たのです。
独身時代の私は、“頂く”ことばかり考えていました。
“先に頂いたら、与えましょう”と思っていた。。。という方が
正確かもしれません。
恋愛においても、両親との関係においても、
先に相手が何度も電話してくれたり、素敵なギフトをくれたり、
優しい声かけをして“頂く”ことばかりを求めていました。
その、目の前の人に
“どうしたら、この人を幸せに出来るんだろう!?”
“私は何を、この人にお分けできるのだろう!?”
なんて、露ほども考えられませんでした。
たまたま私のケースは、
主人に愛を頂くことで、人にも愛を与えることが出来るようになりましたが、
実は私の主人のように、最初から目の前にいる人に
圧倒的に愛を与えていく人は、いつも人に愛される人なのだと思います
愛は、実はちょっとしたことの中に宿るもの
目の前の、その人の笑顔が見られるような
ほんの少しの気の利いたことや、スイートサプライズが出来たり、
優しい声かけが出来たり、関心を示したり、
笑顔や視線を向けてあげられることだったり
そんな、愛を与えられる人は、
きっと誰からも愛を頂く人なんだろうと思います。
今のアナタは、どれぐらい
目の前にいる人に、ちょこっとした愛を与えられる人ですか?
カラフル・ハピネス・セラピスト 泉 智子
泉先生のカラフルハピネスブログが小冊子化されB0~B106までお読みいただけるようになりました詳しくはビタカラHPhttp://www.v-colors.co.jp をご覧ください
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